コンプライアンス・著作権・相続の仕事をやりながらこの頃思う事
(1)コンプライアンスの仕事と言っても、研修講師は参入障害があまりに低く、法律分野の弁護士のような高い障害がないのだ。コンプライアンスのコンサルティングといってもこれまた参入障害がゼロだ。自称プロが通用してしまう。明確なプロの判断基準があるのか。それがあれば一生涯やっていけるであろう。
(2)大手の研修会社に依頼を受けて半専属のような形になったことがあるが、講師研修の時に自称コンプライアンス講師が集まったときのその数の多さよ。「ステークホルダーの信頼を得るのがコンプライアンスでは大事です」のようなことばかり言ってほとんど後は経験談であった。その話に普遍性はなかった。
(3)本の出版なんて友達の弁護士に聞いたら、全部ゴーストライターが書くのが多いらしい。オレの友達の弁護士は、最終原稿にサーと目を通して終わり。民事関係の本だけど結構売れているよ。資格がないのに能力がある人はかなり多いらしい。東大や司法試験は簡単ではないからね。運もあろう。親ガチャかよ。
(4)仕事の上流をつかんだ出入り業者や上場企業も進出しているエージェントが大幅なマージンを取り、ほぼ偶然に近い出身校や地縁、血縁等の紹介に頼って研修講師等の仕事をしていても、自らの一定の営業確率で受注することがないと自分で別荘を持つ事等の成功者になることは難しかろう。都心のタワマン所有もだ。
(5)web集客で必死になってみても、有料コンテンツや綺麗なサイトを作るにはカネかけた外注によってグーグル検索上位等がなされていることが多いであろう。SNSで目立つ者も一発屋みたいなもので所謂山師に近い。本当の価値があるのか。個々人の人格が矮小化されて文明的な勢いと圧倒的な資本と権力次第だ。
(6)生成AIにどれだけ頼っても。クリエイティブな発想は生まれてこない。相変わらず真実性の担保からは程遠く、従来的な学者の書いたものや客観的な事実に裏付けられた真理こそが最も頼れるものであり続けるであろう。人間の知性と誠実さ以外に何か本当に信頼できるものがあるのか。俺は自分の専門性を強く何よりも信じる。
(7)自分の専門が多方面に及ぶことは、アリストテレスやダビンチのようなホモサピエンスで完成型になれないと無理だ。狭く深く、社会のできるだけ多数から信頼される専門分野のロジックを自己に持てるように精進を死ぬまで重ねていくしかない。コンプライアンス・相続・著作権だ。バレーボール。これら周辺だ。
(8)時々、自分のバレーボールに関する知識と経験の深さは誰にも負けないともう17歳の時に悟った。それが証拠におれは進学校にいたが全日本高校選抜選手になって合宿時にはキャプテン兼セッターをやっていた。コーチを頼まれれば当道府県のブロック大会で優勝させた。その知見と肉体はもう完成していた。俺は自分の17歳を超えていないとも言える。
(9)この完成にコンプライアンス・相続・著作権を持っていく。コンプライアンスは極めて多義的になってきているが、喧しい某テレビ局やタレントそして政治等不祥事も、その全ての中心にコンプライアンスがないからである。難しくない。コンプライアンスの極めてその有用性が高いのは理論と実践両方あるから。
(10)相続問題もその周辺を含めて非常に重要になってきた。これは人類の承継の問題なのだ。相続財産の承継、祭祀の承継。いずれも資産と文化に密接にかかわっている。それをぞんざいに扱っている企業や士業は必ず天罰を受けるであろう。どのような地域社会、国を作るかとも関わる、人の尊厳そのものともだ。
(11)著作権が著作権法学会での日本の知的財産法分野の最高知性の議論が毎年なされ、おれは全神経を集中させて、学者の外国法研究も含めての論を東京神田の一橋講堂でキクのが至福である。youtubeも生成AIもある意味、黒船なのだよ。弱小国に大砲を鳴らして迫ってきているのだ。知性と良心で戦うしかない。
(12)最後に、職業がら倫理研修の仕事をやっているので、人の道に反すことにはかなり前面に気持ちが出る。例えば、イキナリ自分達の好き嫌いの感情やちょっとした損得で何の問題もない依頼継続を遮断して来る取引先や公務員がいる。いずれその東京企業と九州組織の事は書かざるを得ない。職業倫理の前に基本の人間倫理がどうなのか。母への裏切りを平気でするのと同じだ。