亡き母を想う5つの断章―職業倫理の根底には個人倫理がありそのさらに根底には母(なるもの、命の源)への感謝の気持ちがあろう。

Contents

1.母の命日に、心に浮かぶことをそのまま文にすれば。2012-09-19

◆今日は、母の命日であった。 もう10年になる。 あの明るく晴れ渡った秋の逝く日の事をありありと思い出す。私は重い病気の発作が出た家族を連れて故郷の空を後にした。骨拾いさえ出来なかった。その日から繰り返し母が夢に出てきた。池の畔で池に石投げをして遊んでいた。三途の川に行く前か。

◆その母は、私が19の夏に心臓弁膜症の手術をすることになった。京都の大学にその春から入学した私は母の付添いのために夏を母の入院した遠くの病院でほぼ過ごした。親戚に家にもとまった。1日で嫌になった、仕方がないので京都と行き来したりビジネスホテルにも泊まった。病院も寝たが限界があった。

◆若い医師であったが、手術はほぼ成功した。父と謝礼金を渡したのを覚えている。当時の金で30万円はあった。今なら、2倍以上の価値あるか。母はアイスクリームをほしがった。それと、刺身であった。何度も街中に買いに行った。そして、夏が終わり大学は9月中旬から授業が始まるが京都に行かなかった。

◆秋の日に母は退院した。感激の時であった。それからの母で変わったことは、小さな楽しみを見つけるのが本当に上手になったことであった。絶えず、何かいいことないかなと。とてもそれは考えさせられることであった、生きることの意味を。そうだ、小さくてもいいから生きることは一時を楽しむことだと。

◆母の愛情は本当に深かった。私は、それにこたえる人生を送っていない。私は少しでもそれに応えと考えた。しかし、自らの怠惰と短気がそれを消し去り母の愛情にこたえようと心で思っている最中に突然に亡くなった。亡くなった時はもうどうすることもできない失敗をした気持ちと悔しさに憐憫が混じった。



 

2.亡き母が頻繁に連絡をしてきた頃のこと…私は東京の吉祥寺にいて20代の後半であった。2011-02-05

亡き母は、初孫を大層可愛がった。しかし、それがある事情で音止みになるとそのことを含めて頻繁に私に電話をしてきた。

相当寂しかったようである。

「死にたい」と呟くこともあった。

また、あるときは私に辛い思いをさせたと電話の向こうで号泣していた。具体的に何かは言わなかったが。

そして、突然、埼玉の実弟や実妹のところに親戚の結婚式か何かできた時に吉祥寺に行きたいと言ってきた。

それで、埼玉まで迎えに行った。

しかし、母は吉祥寺にきてもひたすら私の衣類や布団の縫物をして疲れてしまっていた。

でも、銭湯に行こうと誘って行った。珍しく喜んでいた。

父のことや私の兄弟のことや孫のことをずっと話していた。また、村のこともよく話していた。

しかし、私のやろうとしていた法律家への道はどちらでもなかったが、ともかく勉強することを尊いことであると自分の実家の偉くなった医学系の方々の事を挙げて言っていた。

そもそも、母はスポーツは反対であった。全国選抜大会で私が選手宣誓の栄誉に浴したので母に来てもらったことがある。

そのこと自体母は乗り気ではなかったが、砺波高校の下宿先に泊まるのは行ってもいいと言ってきた。下宿のおやじさんとは気が合うようで話を長くしていた。

体育館で選手宣誓をしたがすぐに帰ってしまった。いつ帰ったかもわからなかった。つまらないと思ったのであろう。

それでも、父には様子を話していたようで、またまた、父から長い手紙が来た。勉強のことが書いてあった。

母も同じ気持であったであろう。

私も辛かった。どうにもバレーボールで煽てられて、体育教師などに国立の教育大学を勧められたりして有頂天になって勉強に身が入らなかった。情けない。

そして、結局は中央大学の白門会の入室テストの合格して、東京に勉強に出てきたのであった。京都の大学にはいつでも戻れる状態にして。

東京暮らしはすぐに終わった。しかし友人関係には恵まれ、弁護士の今は亡き奥村裕二君と親友になった。国立の一橋大学にもよく行った。

京都に戻ってきても、母はよく来た。私は、今の妻と知り合った時は大層喜んでくれた。

そうしているうちに、母の病状はどんどん悪化して、私の娘が買い物に一緒に行くようになった夏の終わりに帰らぬ人になってしまった。

娘には、繰り返し最後の買い物のことを話して母の記憶をとどめさせている。

何が悲しい、母と話せないことが本当に苦しい。霊媒師に頼もうかと何度も思ってしまうくらいである。

ともかく、母の人生観が色濃く私の生涯に影響を与えていることはまちがいなく、母の人生相談の解決方法は達人の域であった。あのように人を安心させる受け答えをどうすればできるようになるのであろう。癒しそのものである。

今日も、母に済まないとおもって帰宅路を歩いて帰ってきた。これだけなのかと。もらった愛情は余りに深い。

それに余りにも応えていない。明日からでも、人の役立つように1ミリでも進みたい。それが母の恩に報いる道だ。

 

3.母の声が聴こえる朝。歩いても、振り向いても亡き母の声が聴こえてくる朝がある。南紀の山を見つめても。2012-12-13

◆昨日から和歌山県に来ている。昨夜は和歌山駅のホテルグランビアに。

今は、和歌山の田辺市に来ている。

和歌山県の和歌山市や田辺市の市役所職員のリスクマネジメント研修を担当している。

京都よりは暖かい。やはり南だな。

リスクアセスメント研修では、リスクマネジメント、リスクアセスメント、危機管理、コーポレート・ガバナンス、コンプライアンス等の話が中心である。東日本大震災は繰り返し触れた。

◆今日の朝は、自分の気がふれたのか思うほど耳の奥底にしっかりと母の声が聴こえてきた。

「こうしん」、「こうしん」と何度も言っていた。

朝ごはんに、ホテルグランビアの窓から紀伊山地のふもとの霞がかった山々を眺めていると突然声が大きくなってきた。

どうしたんだろう。

あの世も、いろいろあるのであろうか。呼んでいたのは、何かあったからなのか。それとも、会いたくなって来てくれたのか、それであの世から降りてきたのか。

分からない、愚鈍な私には。

でも、どうしたんだろう。

この紀伊山地の世界遺産にもなった熊野の霊場は何か不思議なパワーを持っているのであろうか。

私は、今日はほとんど疲れなかった。5時間半ほど話づめ。何ともなかった。

やはり、母が私が心配であの世から来てくれたとしか思えないのだ。

ありがとうございます、おかあさん。

済みません、まったく親孝行できなくて。

でも、私が高校を出てすぐに東京の原宿パレフランスの雅宝石店で働いたときに買って帰った宝石のブローチはずっと持っていてくれた?

とても、嬉しそうにしていたね。

でも、亡くなった時に私が病気の妻を連れて行ったときに、その混乱の中でそれは見つからなかった。

そして、私が母に預けた大事な中学生の時から書き続けていた私の日記帳もなくなっていた…。

おかあさん、私の思い出にあの世に日記帳も持って行ったのですか。

だったら、とてもうれしいです、不肖の私のこともあの世で思い出してください。

私も、いつそちらに行くかわかりませんが。

弟も、この前逢った時に言っていましたよ、母のいるあの世ならいつ行ってもいいと。

私も同じです。

ありがとう、かあさん、何度思い出しても、15歳まで母と暮らしたときは最高に幸せでした。

 

4.死後も続く母の意思…消えた私の日記と残った亡き母の日記 2013-05-21

◆私の亡き母は、若いときから日記を書いていた。

きかっけはよくわからない。生前に聞いたこともなかった。

ただ、母の父、つまり私の祖父がいつも日記を書いていたことは知っていた。祖父は仕事に厳しい人であったから、仕事とその他の日誌といっていいかもしれない。

いずれにしろ、母は日記を書いていた。

私は、幼少のころに母がノートのようなものに、いろいろな出来事を書いているのを知っていた。

母の懐かしくて優しい匂いのするタンスなどにちょっと置いてあって読んだことがある。

その中には、私を育てるに苦労している様子が書いてあって思わず読みながら赤面したこともあった。

「やっと、○○についていうことを聞いてするようになった。分別が少しはついてきた…。」のような趣旨の事が書いてあった。

苦労かけたんだな。

恥じ入るばかりだ。

その母は、亡くなる10年ほどはほとんど欠かさずに日記を書いていた。

心臓の手術をしたときは、ノートに書いていた。

それは、素晴らしい母の心の証であろう。

絶えず、人の幸せを思っていることがしっかりと分る。

また、風物詩としても貴重であろう。

故郷の生活習慣や物価等よくわかるのである。

◆私の母の影響を受けたのかどうか今となっては分からないのであるが、私も中学1年から日記を書いていた。

母にねだったのであろうか。ずいぶんしっかりとした装丁の付いた日記帳を買ってもらった。

それに、かなり赤裸々な悩みも日々のあったことも書いていた。

結婚するまで、日時を置きながらも、日記は続けた。

しかし、ほとんど隠さずに書いた日記である。

結婚するときは、荷物を生家にほとんど送ったこともあり、その日記帳やアルバムを母の自室にしまってもらうことにして、母に渡してしまった。

私の家族と帰省した時には、母専用の部屋の隅に箱に入れて置いてあったのは知っていた。

◆しかし、母が亡くなった時には母の専用の部屋にはそれが見当たらなかった。

母の亡骸は、一階にあって、二階の母専用の部屋には誰も入っていないはずであった。

 

ところが、未だにないのである。

先日、父の見舞いに行ったときにも家中を探したがなかった。

弟にも心当たりを聞いたが分らないといった。

どうしたのだろう。もうなくなってしまったのか、私の日記やアルバムは。

◆でもいまは、すこし気持ちの動揺が収まっている。

それも母の意思なのかもしれないと思うのだ。

私の日記は、自分の事が多く書いてあって、だれも読む価値なぞあまりないであろう。

でも、母の日記は、そのまま出版していいような値打ちのある亡くなる前の10年日記である。

その母の日記を読むことこそ価値あることであり、私はどれほど深い母の愛の中で生きてきたこと言うことを心より感謝せずにいられなくなるのである。

(かあさん、聞こえますか。今も日記は読ませてもらっています。)

亡くなる前の日まで、献身的に仕事頼まれてして働き、葬儀の時にはあれほど多くの人の涙を誘った母こそは、私だけでなく日本の母である。

(ありがとうございました。おかあさん。)

(少しは聞こえますか。)

◆今は取り壊された母の職場を。

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5.幸せな幼少期を過ごした亡き母への感謝 2013.5.21

私がアメーバーブログで日記を書くようになったのは、10年前に急死した母の事を書きたかったのが理由である。

私は母に感化されて、中学生からは間は飛び飛びであったがずっと日記を結婚するまでつけていた。

それが、再開して少しずつ書いていたのであるが、母が亡くなって無性に書きたくなって、たまたまアメーバーブログで書き始めた。

今では、コンプライアンス等の仕事のことも多く書くのであるけれども、主たる理由は変わらない。

その母への感謝と全く親孝行できなかったばかりか心配ばかりかけていた慙愧の気持ちで今でも時々書く。

 

※いまは、日記を自分自身のサイトのブログに書いている。…https://nkoshin.rima21.com/category/diary/

■本願寺に時々お参りに行っている。京都市堀川七条上がる

 

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